原 匡仁(ハムカツ太郎)さんインタビュー
“大人の社交場”で広がった 50代からの生き方
1964年神奈川県横浜市生まれ。大学卒業後、アパレル会社に勤務する傍ら、BUKATSUDOみなとみらい昭和文化研究部部長としてコミュニティ運営に携わリ、「場」づくりの重要性を実感。またイベントをきっかけにハムカツの魅力にも心酔し、2018年7月、TBS「マツコの知らない世界」にハムカツ太郎として出演。その後も多数のメディアに出演。2019年末に32年間勤めた会社を退職し、令和時代の“社交場”として『アトレ竹芝』にオープンした『SHAKOBA』支配人に就任。
かつてアパレル企業で会社員をしていた原さんの趣味は、一人で昭和風情の残る喫茶店や飲み屋めぐりをすること。そんな、「人見知り」を自認する“50代のおじさん”の人生を変えたのは、「ハムカツとビールとサードプレイス」でした。現在は『ハムカツ太郎』としてさまざまなメディアに出演し、長年勤めたアパレル企業を55歳で早期退職した後は、『アトレ竹芝』に生まれた令和時代の新たな“社交場”『SHAKOBA』の支配人に就任。今回は、サードプレイスでの活動とコミュニティをきっかけに生き方の可能性を広げた原さんにお話を聞きました。
酒の勢いで始まった“人見知り”主催の大人の部活動
―原さんは、リビタが企画運営している“大人の部活”が生まれる街のシェアスペース『BUKATSUDO』の2015年の文化祭で、『みなとみらい昭和文化研究部』を発足しました。当時、アパレル会社に勤めていた原さんが同部活を主催することになったきっかけを教えてください。
『BUKATSUDO』を担当しているリビタ社員と僕の知り合いが友達で、3人でお酒を飲む機会があったんです。その飲みの場で、昭和風情のある酒場や喫茶店が好きで、一人でそういう場所を訪ね歩いていると話したら、「BUKATSUDOで昭和探訪をする部活を立ち上げませんか?」と誘われました。でも僕は、性格的に人の前に立って動くタイプではないし、そもそも人見知りなんです。コミュニティというものに興味が無くて、“他人とシェアをする”とか“コミュニティに属する”という世界に触れてこなかったから、知らない人を集めて自分が中心になって会を主催するのはとても無理なことだと断ったんです。「一人で好きな場所を巡ったほうが気楽で、楽しい」と何度も断ったのですが、ずっと誘ってくれるし、僕もだんだん酔っ払ってきまして(笑)。そんなに言うなら、誰も来なかったらやめるという条件付きで一度やってみようということになりました。
―酔った勢いから部活が始まったのですね(笑)。それでも、『みなとみらい昭和文化研究部』は『BUKATSUDO』では長く続く人気の部活になりました。
最初は、部室の前に『みなとみらい昭和文化研究部』と看板を立てて知り合いと飲んでいるだけでした。ただ、意外と「昭和部って何ですか?」と覗いてくれる人がいて、「まあまあ1杯飲みましょう」という感じでメンバーが集まってきました。5~6人集まったところで、どんなことをやっていく部活なのか飲みながら話して決まったのが、「ハムカツを作ってビールを飲む」ことだったんです。
「好きパワー」がマインドチェンジをしてくれた
―そこでハムカツが出てくるのですね。
ハムカツはビールに合うし、作るのが簡単ですから(笑)。ただ、やるからにはきちんとやらないといけないと、僕の中で変なこだわりが生まれました。自分が本当に美味しいと思えるハムカツを部員に出したくなって、いろんなお店のハムカツを食べ歩いたんです。たどり着いたのが、今は閉店してしまいましたが上野にあった田中食堂のハムカツでした。店主にどこのハムを使っているのか聞いたら、アメ横の二木の菓子に売っているプリマハムの2キロブロックプレスハムだと教えてくれたんです。
―部員のために美味しいハムカツを突きつめたのですね。原さんは人見知りだと言いますが、サービス精神は旺盛だと感じます。
そもそも自分自身が昭和風情のあるものが好きだからこだわりたいし、好きなことだからやっていて楽しかった。好きってパワーはすごいですね。ハムカツの次は、空間にもこだわりました。『BUKATSUDO』はスタイリッシュな空間なので、どうやったら昭和風情が出るか考えて、ハイサワーの販売元である博水社に問い合わせてハイサワーのぼりを入手して部室に立てました。もともと昭和に生まれた飲み物であるハイサワーは好きでしたし、ご縁があって博水社の社長に出会って、そこからいろんなイベントに呼んでもらうようになったんです。雑誌『dancyu』の現編集長に出会ってハムカツ紹介で誌面に出してもらったりと、一気に交友関係が広がりました。
―原さんがコミュニティを広げていく過程を聞いていると、最初に「コミュニティに興味が無い」と言っていた片鱗も見えません! 仕事と関係の無いコミュニティでボランタリーの力が集まると価値が生まれるというお手本を見ているようです。
「昭和」「ハムカツ」「ハイサワー」というキーワードに惹かれる人は一定数いて、最初はそういう人たちが集まる少人数の活動でした。ただ、部室に集まってハムを切り始めると、なんとなくみんなが打ち解け始めるんです。そうやってハムカツとハイサワーを楽しんだ人が、次の会に友達を連れてきてだんだん人数が増えていきました。その頃には僕の中でコミュニティが苦手という意識は消えていて、「ああ! コミュニティってすごいな」と思い始めていた。仕事とは全く関係のない他人同士がワイワイと楽しんで、部活以外の場で集まって飲む約束をしているのを見るのは、僕がそれまで経験したことのない時間でした。僕はそういう時間が心の底から楽しかったんです。その時は51歳でしたが、コミュニティというものが分かってきた気がして、興味のあるイベントには自分から行ってみようというマインドになっていました。
自ら足を運ぶから広がるご縁がある
―ご自身でイベントを主催するだけでなく、自らイベントにも出かけるようになってどんな変化がありましたか?
株式会社スギヨという、世界で初めてカニカマを作った会社とも、イベントを通じて知り合いになりました。スギヨさんはカニカマの可能性を広げる活動をされていて、25センチのカニカマをフライにしてパンに挟んで食べるカニカマドッグを販売していました。これが本当に美味しいんです! 僕のイベントでもカニカマドッグを提供したいと思い、スギヨの担当者に個人販売ができないか問い合わせました。結論から言うと、扱っているのは業務用のカニカマなので卸でしか販売できず売ってもらえなかったのですが、僕がハムカツとハイサワーのイベントを開催していると説明してお願いをしたら、協賛というかたちで提供してくれました。ずっとハムカツとハイサワーだけでは『BUKATSUDO』のイベントに来てくれる人も飽きてしまうので、少しずつアップデートしていくことに気をつけていました。
そんなふうに様々なイベントに行ったり出演させてもらううちに、経堂にある『さばのゆ』という酒場に出会いました。夜な夜な様々なテーマを設定して、その道を極めた人を招いて人々が交流している場です。数年前、この『さばのゆ』に広島の『重富酒店』のマスターが来ました。マスターはビール注ぎの名人としてその界隈ではとても有名な方で、僕が憧れていた人です。『さばのゆ』でご挨拶をさせていただいて、いつか僕が主催するイベントでも注ぎ分けをしてほしいとお願いしていました。そんなつながりから、先日『SHAKOBA』にマスターを招いて、ビールの泡を注ぎ分けする飲み比べイベントが実現したんです。
「ちょっと人の話を聞いておこう」
―原さんは、仕事と家庭以外に『BUKATSUDOでハムカツとハイサワー』というサードプレイスを持ったことで、ご自身のマインドも活動範囲も広がりました。その影響は、暮らし方にどう反映されていきましたか?
50歳を超えた時に、60歳からどうしようかと考えたんです。会社で定年まで働いて、その後に再雇用制度を使って会社に居続ける選択肢もありました。でも、稼ぐ金額が変わらないなら別のことをやるのも楽しいかもしれないと思ったんです。それは、51歳でBUKATSUDOとハムカツに出会ってコミュニティが広がっていった過程で起きた意識変化の影響が大きいです。それで、先のことはノープランだけれど55歳で会社を辞めようと決めて、昨年末に退社しました。退社後に、『SHAKOBA』の支配人を探していると声がけをいただいて、今はここにいます。本当に、僕の世界はハムカツとハイサワーで広がっていきました。
―一般的には、歳を重ねるごとに頭でっかちになって新しい考えが受け入れられなくなると言われていますが、原さんの話を聞いているとそんなことはないと勇気が持てます。
『BUKATSUDO』に誘ってもらったときに思い出したことがありました。会社の人事異動で、僕の中では絶対に向いていないと思っている部署へ異動の内示があったんです。会社命令で仕方なく異動したら、異動先の部署ではすごく勉強になることが多かった。そのことを思い出して、人が僕のために問いかけてくれたことは何であれ素直に受けてやっていこうと思ったんです。酔っ払っていたけれど、「ちょっとこの人の話を聞いておこうかな」と思った(笑)。
僕の中のコミュニティはこんなふうに始まったから、新しいことを始めることに抵抗はなかったです。ハムカツを食べ歩いた記録を残そうと思ってブログを始めたし、そのブログのタイトルで『ハムカツ太郎』と名乗ったところから、“ハムカツに詳しい人”としてテレビ出演もさせてもらいました。僕がやったことでみんなが喜んでくれるのがすごく嬉しいし、次にどんな仕掛けをしようかアイデアを出してそれを喜んでくれたらいいなと考えるのがモチベーションになる。そうやって、職場と家庭以外の知り合いが広がっていくんです。いろんな人とのつながりが広がると、暮らしの中に充実感が出てくるし楽しい。今では新しいことを始めることが楽しいし、これからも何でもできると思っています。
Uber Eatsで、仕事の多様性に気がついた
―今日は、原さんが支配人を務める『SHAKOBA』でお話を聞いています。
『SHAKOBA』はリビタが運営する令和時代の“社交場”で、全室カラオケ付き、キッチン、バーカウンター、キャバレーのようなホールなど設備が充実した場です。キッチンスタジオとして使える部屋があり、先日はその部屋で鍋をしながらカラオケを楽しむご家族がいました。今は三密を避けないといけない状況です。ただ、小さなお子様は動きまわりたいですよね。そんなときに家族で部屋を貸し切って、料理や運動、カラオケを思い切り楽しむなど、コロナ禍ならではの使い方もできます。
―原さんは56歳で支配人という新しいチャレンジをスタートしたわけですが、新型コロナウイルスの影響で施設のオープンが遅れました。自粛期間中はどんな気持ちで過ごしていたのでしょうか?
コロナ禍は誰もが等しく同じ状況なので、仕方がないです。前の会社を退職してから『SHAKOBA』のオープンまで時間が空いて毎日が暇でした。それで、ふと思いついてUber Eatsの配達員をやってみたんです。配達員は働く条件に年齢の上限が無いし、自転車でやれば運動不足も解消できると思いました。ただ、僕は自転車を持っていないので地元にあるシェア用自転車を1日1,000円で借りて始めました。自転車代の元くらいは取ろうという気持ちで始めたのですが、やってみるとこれが楽しいんです! こんなにストレスの無い仕事があるのかと新しい発見がありました。配達員の仕事は、誰にも指図を受けないんです。店舗からオファーがあっても行きたくなければ拒否ができる仕組みになっていて、やりたい時にオファーを受ければいい。配達する場所も自分で決められるので、今日は天気が良いから公園の近くでやろうなど、その日の気分で働いていました。
―晴耕雨読の現代版のような働きかたですね。
配達員を経験して、世の中には仕事は何でもあるのだと仕事の多様性に気がつきました。僕は1964年生まれでバブルも経験した世代です。数百人単位で就職試験を受けて、入社したら朝から晩まで働いて、一定の年齢になったら家を買って定年まで勤める……と、当時は自分の中にその一本道しかないからそのとおりに歩いてきました。でも今は、周りを見渡せばいろんな働き方があるのに気がつける。ちょうど娘が就職で悩んでいるのですが「焦って就職しなくてもいい。仕事なんて何でもあるよ」と言っています。大学を休学して、暑い季節は北海道でバイトを見つけて、寒くなったら沖縄で働いてもいいんじゃないかと。僕は先も短いから(笑)、自分が興味あることはなんでもやってみようというマインドになっていて、それを娘にも伝えています。
集まることが価値になる時代に『SHAKOBA』のあり方を考える
―実際に『SHAKOBA』がオープンした時は、どんな気持ちでしたか?
グランドキャバレーのようなホールを実際に見て、この仕事は本当に楽しくなりそうだと思いました。知らない人同士がこのホールで飲んでいて、歌うのが好きな人がステージに上がって、その場にいる人たちでワッと盛り上がる。ステージから降りてきた人にお酒をおごり合うような光景が浮かびます。職種は前職と全く違いますが、人と人をつなげるという『BUKATSUDO』での経験があるから仕事の想像はついていました。
―未だコロナの収束は見えず、しばらくの間は外出も控えめにする必要がありそうです。これからの『SHAKOBA』は、どんなふうに人々と関わっていくのでしょうか?
『SHAKOBA』はもともと持っている場の力があります。壁紙・アート・絨毯・照明など細部までこだわりが詰め込まれた完成された空間なので、どこを切り取っても絵になります。コロナ禍で配信動画を録る・見るというハードルが一気に下がりました。これから動画配信はますます洗練されていくと思います。その時に様々な場の表情を持つ『SHAKOBA』は配信側と見る側をつなぐ場として役に立つと思います。
また、3部屋のレンタルルームとキッチンはそれぞれ全くテイストが違うので、使う人の数だけ使い方があると考えています。レンタルルームと言うと単なる部屋貸しのように捉えられますが、その場があるから発想が膨らむこともあるはずです。例えば、キッチン貸しというと料理教室を浮かべる方が多いと思いますが、先日開催されたイベントは、煮干しの解剖教室でした。キッチンで煮干しを解剖しながら胃や心臓を見て学ぶんです。また、コミュニティの幅を広げれば、アトレ竹芝に入っている他の施設とのコラボレーションもあり得るでしょう。コロナ禍の今は『SHAKOBA』まで足を運んで集まってくれることがすごいことです。集まることが価値になっていく世の中だからこそ、「人が気軽に集まれる場所」の存在も大切になっていくと思います。
原 匡仁(ハムカツ太郎)さんのお気に入り
マックイーン気分で
身につけるアクセサリー
お気に入りの時計
『タグ・ホイヤー モナコ』
原さんお気に入りの時計は、1988年にタグ・ホイヤーが5,000本限定で復刻したタグ・ホイヤー モナコ。シリアルナンバー付きのプレミアで、オリジナルは映画『栄光のル・マン』でスティーブ・マックイーンが身につけて脚光を浴びた。
「機械式時計が欲しいと思って探していたときに見つけた時計です。タグ・ホイヤーは丸型のイメージがありますが、限定でスクエア型のモナコが復刻すると知って購入しました。男性のアクセサリーは時計や靴など限られているので、時計にはこだわりたいと思っています」
ベストは価格よりもサイズを大切に
お気に入りのベスト
『タリアトーレ』のベスト
原さんが着用しているベストは、『タリアトーレ』というイタリアのブランドのもの。客層やホールの使われ方に応じて雰囲気を変えられるように、常に『SHAKOBA』にベスト数着を用意しているという。
「『SHAKOBA』の制服を考えたときに、昔から着なれているベストを着ることにしました。シャツ1枚ではだらしなく見えますが、ベストを着ると雰囲気が引き締まって見えます。スーツやベストなどドレッシーなアイテムで大切なのは価格よりもサイズ感なので、体型に合ったものを選んでいます。最近はベストを着る若い人が少ないですね。やはりおじさんのアイテムなのでしょうか。60歳になったら赤いベストにして、ちゃんちゃんこ代わりにしようと思っています(笑)」
丁寧な手入れで
『革靴の王様』を一生ものに
お気に入りの靴
『ジョン・ロブ』のレザーシューズ
原さんお気に入りの靴は、イギリスで創業したジョン・ロブのもの。『革靴の王様』とも言われるジョン・ロブの革靴は、一生に一度は持ちたい憧れのブランド。
「前職でイギリスの靴を扱った時に興味がわいて履いたのですが、世の中にこんなに履きやすい革靴があるのかと驚きました。革の質が良くて磨くと鈍く光り、履くほどに味が出てきます。ソールが減ってもソールごと変えられるので数十年履き続けられます。価格は高いですが、愛着を持ってずっと履き続けられる靴です」